個人メディアが「信じたい情報」が真実になる世の中を形作る
今回は、情報の価値が上昇している現代において、個人メディアが社会にもたらす大きなリスクについて考えたいと思います。
かつてカエサルは「人は自分が見たいと思う現実しか見えない」という言葉を遺しましたが、最近になってその言葉の意味がより現実味を帯びてきているように感じます。
人は信じたいものだけを信じる
去年の米大統領選は記憶に新しいでしょう。
中流階級の白人の漠然とした将来への不安が漂う中、自分たちに都合の良い主張をするトランプ大統領に支持が集まり、トランプ氏が当選しました。
その後トランプ氏が最初に掲げていた聞き心地の良い政策の数々は実現できず、支持率は38%と歴代最低です。
なぜこのようなことが起こったのでしょうか?
その要因の一つとして、信じたいことを信じるという人の性質があります。
トランプは言葉巧みに人々が不安に思っていることを解決できると主張し、人々の支持を得ました。
トランプの掲げる政策には実現可能かどうか怪しいものが多かったのですが、人々は目をつむり、自分にとって心地の良い言葉を妄信的に信じてそれを拡散しました。
そして「信じたいこと」のみが広まり、それが「みんなにとっての真実」に代わっていきました。
この例から見てわかるように、
人はみな、信じたいものを信じているにすぎないのです。
そして、みんなが信じたい情報は拡散され、「みんなにとっての真実」を形作っていきます。
ここから一つ重要な事実が浮かび上がります。
「みんなが信じたい情報は拡散される」
ということです。
皆が信じたい情報を書くことが利益につながる
ここで個人メディアに視線を移します。
個人メディアでは、アクセス数が書き手の収益に直接結びつくので、よりアクセス数の稼げる記事を書くことが書き手にとって大事なことになります。
なので、より拡散されやすい、「みんなが信じたい情報」を書くことが、書き手の利益につながります。
したがって、真実よりも「みんなが信じたい情報」がネット上に蓄積されることになります。
「真実」は「信じたいこと」へと勝手に成長する
ある人が情報を、ある一面を取り除いたり改変したりして、「みんなが信じたい情報」に少し変えて発信したとします。
するとその情報が拡散され、別な書き手がその記事を主な情報源として、さらにそれを改変して公開します。
このサイクルによって元の情報はどんどんとゆがめられ、真実は「みんなが信じたい真実」と形を変えます。
こうして出来上がった「真実」は、「みんなが信じたい真実」であり、ゆがめられています。
こうして虚偽が人々の共通認識として流通し、それに基づいて皆が行動し、多くの場合最終的に人々は不利益を被ってしまいます。
歪められた情報で不利益を受けても、だれにも責任を問えない
「みんなが信じたい情報」が流通し、それが信じられて不利益が生じた例は、大事故や不動産バブルなど数知れません。
しかし、虚偽の情報の発信者は責任を問われることはありません。
なぜなら情報の選別・歪曲は様々な書き手によって少しずつ蓄積されるものなので、特定の個人に責任があるわけではないからです。
さらに言えば、その情報を信じて拡散した人にも責任があります。
なので、「みんなが信じたい情報」を信じた共同体全体に責任があるといえます。
よって、情報の歪曲を取り締まることはできません。
このことは、より個人メディアが「みんなが信じたい情報」を流すのに拍車をかけています。
情報のひずみをただす理性的な個人・報道の必要性が高まる
一方で正確な情報を伝える情報源として、従来のテレビ・新聞などの報道がありますが、昨今の個人メディアとの競争によってその力を弱めています。
今後報道までが真実性を軽視しだす可能性もないわけではありません。
実際に米大統領選ではその兆しが見えていたので、日本でもそうなる日も近いかもしれません。
そこでより大事になてくるのは、自然と蓄積される情報の歪曲をただす、影響力のある理性的な個人・報道の存在です。
虚偽の流通を阻止するには、「見たくない真実にも目を向けさせてくれる」人が必要です。
それができるのは、信じたくないことを言っていても耳を貸したくなるくらい、影響力のある個人・報道のみです。
こういった人・組織は今後混沌とした情報社会で必ず必要になってくるでしょう。
そしてその人がそういった発信をする姿勢を取り続ければ、他との差別化になるうえより信頼できる情報源として頼られ、さらなる影響力を獲得できるでしょう。